ぴあ

自分のなかでバランスをとりたい気持ちがずっとあって、あいばさんを摂取するといつでもかんったんに幸せになれてしまうのがわかってるので、そういう即効性のある楽しみばかり追いかけてたらだめだって自制する気持ちが常にある。先週の土曜日が特に楽しかったこともあり、その反動で今週末はじっくり読書に沈潜しようと思ってたんだけど。

ぴあを最初に読んだら計画狂っちゃった。おかげで一日中あいばさんがふわふわしてる。他の本読んでても、ぼーっとしてると全部あいばさんに置き換わってしまう。「2060年の未来予測」…そのころあいばさんはまだ元気に生きてるかなぁ、みたいな。「人は友人や家族のわがままならベネフィットなしで聞けるものだ」…あーわたしもあいばさんのわがままだったらなんでも聞ける、むしろ聞かせてほしい、でも言ってくれない人だろうなぁ、みたいな。



ぴあの記事。わたしも正直、あいばさんの頭の中を詮索しようとするのには後ろめたさがある。だからといって、あいばさんは自己分析とかあんまりしない人だし、語彙が豊富な人ではないから、あいばさんが自分のことについて話した言葉をそのまま鵜呑みにしようとしてると、なんかちがうなーと思うこともある。アイドルだし。なのであいばさんの記事を読むときは「あいばはこう考えてる」って受け取るよりは「あいばはこう表現した」って受け取ろうと思ってる。というか、いつのまにかそう読むようになってる。あいばの言葉を信じてないのではなくて、あいばが何を意識的に感じてて何に無意識なのかを知りたいから。

その、意識的に感じてるもの。「まあ人にされて嫌なことはあんまりしない性格だと思う」この小学生のような誠実さと、「多分俺は毎日、一歩家を出るときから“仕事だ!”つってある程度のことは覚悟してるんだろうね」このプロ意識。共通してるのは「自分のためではない」ということ。なんか…まっすぐすぎて泣きそうになった。そう、最近気づいたけどわたしはあいばさんにがっかりさせられたことがない。こんなにたくさんの言動をずっと見ていて、この人口先だけだよね、とか思ったことがない。なんかもうあいばさんのやさしさには安心感がありすぎて、裏切られる不安が全然ないんだ。それは尊敬するところでもあるし、ああ、かなわないなぁって思わされるところでもあるけれど、だけど偉大すぎて手が届かないものって感じることもないから、崇拝の対象にして神殿の奥に閉じこめておくんじゃなくて、ただただずっとそこにいてほしいなぁと思う。そこにあいばさんがいるだけで、何か大きなものに包まれているような気持ちになって安らぐんだ。

あいばさんをお日さまに例えるのは暗喩じゃなくてほとんど直喩のようなものですが、「惑星の太陽」に例えるのはちょっとちがうかなぁって気がしてる。わたしが「お日さま」というときには、暗い夜を明けさせる朝日とか、うららかな春の日にふりそそぐ日差しとか、少しずつ表情を変えながらいつでも心をあたためてくれる存在という意味で使っているので、安定供給の光源というイメージではないな、と。なので今は、空とか海とか大地とか、そういう太古の昔から変わらずずっとそこにあってわたしたちを守ってくれるもの、という感じがしてる。こないだわたしは「あいばのお母さんになりたい」って言ったけど、このぴあの記事(とマイガ特典のあいば)を経て、今日は「あいばさんの子どもになりたい」と思う。



…って、言葉にするとぜんぜんつまらないんだけど!



ほんとはねぇ、「あいばさんが好きすぎてどうしたらいいかわからない」って書こうと思ったんだよ。でもぱんせちゃんが先にそのままついーとしてたのでw、反射的に書きたい気持ちを抑えつつ、もう少し自分の感情を突き詰めていったら、あいばさん=八百万の神、になったというわけです。うーん…。明日の朝になったらはずかしくて消したくなるかもしれないけど、まあ後悔はしないと思う、これ書いたこと。

あとぴあの写真のこと、saiさんはあいばのことをいつも光に溶けそうな雰囲気で撮ってくれるよね。あの感じ大好き。そしてベストステージもルックアットスターも同じ日に撮られたんだと思うけど、ぴあはわたしの大好物のあいばさんの二の腕の裏を見せてくれたのでありがたし。




今日だけ特別、「あいば」じゃなくて「あいばさん」多めでお届けしました。